2020年05月25日

初ダウンヒル(?)

週末の土曜日、いつもより少しだけ早起きして、マウンテンバイクとともに近くの六甲ケーブルに乗りました。

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山頂までは、ドアtoドアでいえば30分ほどでした。

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ちなみに自転車を買ってしまった経緯です。去年の秋に旅行に行った時、ホテルの1階に自転車のショールームがあって、そこに陳列されていた自転車をふいに眺めていいなと思ったのが最初です。AIDMAのAですね、これは。
その後、ユーチューブをだらだら見ているときにマウンテンバイクでダウンヒルする様子が目に留まって、それで本格的に興味が沸きました。これは、I.その後、ユーチューブを見るたびに何度も同じような動画が推薦されるので、メモリーしてしまったのでしょう。

それはさておき、ユーチューブを見ていてすごく楽しそうだ! と思ったのがダウンヒルする様子。ダウンヒルとは、マウンテンバイクで山を駆け下りる遊び方です。今回でかけたこのコースも、上手な人が駆け下りる様子を見て、自分も行ってみたいなとおもっていたところです。
当日のスタート地点はこんな感じ。

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・・・でしたが、途中は難所だらけ。
ほとんど押して歩いていたと言わねばなりません。
こんな岩の間でさえ、足をついて進まないといけませんでした。まぁ、初心者だから仕方ないか。

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きつい道、ゆるい道? と聞いてきますが、ここはもちろん右側で。

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でも、ゆるい道ででさえ(本当はゆるくない)よたよたと自転車を押しながら進んでいたというのが実情です・・・が、途中、こんな見晴らしのよい、樹の切り株の上に座って朝食を摂ったり、

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さらに進んでいくともっと開けた景色のいいところがあってゆっくりコーヒーをすすったり。
そのうちハイカーさんがぽつりぽつりとやってきたのですが、それまでのしばしの間、一人きりで景色と、鳥のさえずりと渡る風を独占できて至福の時間でした。

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週末にしっかり体を動かして遊ぶと、週が明けてからの仕事にもとてもいい影響があるように以前から思っています。
お家でじっと、がずっと長かったから、よけいそう思うのかもしれません。


自転車走らせながら開けていく、ここからの景色も最高でした。

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2020年05月21日

Hold on world

昨日は久しぶりに、大阪市内で仕事でした。
企業さまを後にしても、まだずいぶん陽が高く、もうすぐ夏の訪れを実感します。

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帰りの車の中で、これも久しぶり、急にジョンレノンのある曲を思い出しました。

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Hold on world
World hold on, it's gonna be alright
You're gonna see the light

Oh, and when you're one
Really one
Well you get things done
Like they never been done
So hold on

多くの人は、when you're one を一人の時と訳しているようですが、今みたいなときにはここはyouを複数形にとって、一つになったときと訳してみてもいいんじゃないかな、と思ったりしながら帰路につきました。



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2020年05月20日

A<B

検察庁法改正案が、見送りになったそうです。

この話に関して、前回は私の主観を大いに入れた記事を書きました。
今日は私の主観を排して、極力、客観的にこの話を眺めてみたいと思います。

簡単にいうと、A<Bです。


与党


@深夜にツィッターに書き込んだ得体のしれない少数の人たち
Aそれを隠して報道し続けるメディア
B官僚(今回は検察のことです。よくわかりませんが、現場の人よりOBが元気)


当然のことながら、Aは私たちが民主的な選挙で選んだ人々です。反対する国民もいるでしょうが、選挙で選んだ多数派が主導権を握るというのは、この国のルールのはずです。
一方、Bに共通するのはすべて、国民が選んだわけではない人たちです。加えて、@とAでは不正行為が行われていると私は理解しています。
でも、結果は A<B。

こんなことが続くのなら、選挙の時に投票しにいく意味があるのかなと思います。
こちらのほうこそ、よほど民主主義の危機だと思います。


しかし、民主主義という既存のフレームワークで考えること自体が、制度疲労を起こしているのかもしれないですね。

かつて、「0」という概念を誰かが生み出したように、民主主義という概念を超える新たな0を見つけないと、この問題は解決しないかもしれません。少なくとも-残念ながら- 日本では。


じゃないと、モリカケ、桜、そして今回の話。
これからも延々と続きそうです。







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2020年05月17日

「甘えてんじゃないわよ!」

だいぶ前に、たまたま見たドラマですぐに魅了された番組がありました。
「ストロベリー・ナイト」という、刑事ドラマです。
原作の小説は読んだことはなかったし、ふだん私はテレビのドラマはほとんどと見ないのですが、このドラマはほぼ例外の一つです。
以来、時々思い返してはみています。
前回見てからだいぶ間が空いてしまっていたのですが、今日は竹内結子演ずる主人公がよく発していたこの言葉を、久しぶりに思い出してしまいました。

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最初は、昨日、朝日新聞の記事を読んでいてそう思いました。
続いて今朝も朝の報道番組(たぶん)を見ていて同じことを思ったのです。


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「検事も人の子」 「出世」

率直な感想として、そんな気持ちで検事という専門職についてもらっていては、困るのです。

私の理解では、みんな、もっとしっかりとしたプロフェッショナリズムに基づいて、あがきながらも、それをとても大切なよりどころとして仕事をしているのです。
例えば、介護職の人を考えてみてください。
訪問した先のおじいさん(利用者さん)が昔、自分にいじわるした人だったとして、その人に対して手を抜いたサービスをするでしょうか?

でも、マスコミや野党や、検察庁OBの元えらい人たちは、自分の損得や好き嫌いで手抜きサービスをすることを前提に話を進めているように私には思えます。
それは、職業人としてのプライドや日本人のモラルを、軽視しすぎているように思えます。
まぁそうすることでしか、自分たちに都合のよいストーリーに持ち込めないのでしょうが。

もう一ついえると私が思うこと。
人は、自分が日頃考えているのと同じ意識レベルで、他者を見てしまうのではないでしょうか。
だから、そんなふうに他者を卑しく定義するということは、自らの卑しさを知らずのうちに示してしまっているのではないかと思います。

こんなことを私が思うのは、中小企業診断士という職業を選んで独立して仕事をするようになってから読んだ、波頭亮氏の次の言葉を今もずっと忘れずに仕事をしているからというのも理由の一つです。

「プロフェッショナルという言葉を聞いてまず思いうかべるのは、常人の域を遥かにこえた知識や技術の凄さであろうが、実はプロフェッショナルのプロフェッショナルたる本質は、神に誓う自らの使命であり、わが身に課す厳しい掟にあるのだ。プロフェッショナルの実質的な定義としての3つの要件以上に、公益に奉仕するという使命感と掟を守る自律心こそが重要なのである。」(P18)

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「正当なプロフェッショナルであるためには、世のため人のため、すなわち公益に寄与することを唯一の動機として働かなければならないのである。ー中略ー
言い換えるならば、深い知識や高い技術を個人の利得のために行使するのであればプロフェッショナルとは呼べないということである。高度な職能を有していても、私的な利益のために働いているのであれば、それは単なる有能なビジネスマンあるいは腕の良い技術屋でしかない。」(P19)

「だからこそ、プロフェッショナルには仕事をする上での厳しい掟が課せられている。
職業人として、何をなさねばならないのか、また何をしてはならないのかについて、絶対に守らなければならない鉄の掟が定められているのだ。」(P19)


新聞社・通信社に勤める皆さんは、ジャーナリストとしてのプロフェッショナルといえるでしょうか。
かつて私が勤めていた小さな新聞社には、 "All the news without fear or favor" という題字が掲げられていましたが、そうした題字(理念)を思いながら仕事をしている人が、今の日本にどれくらいいるのでしょう?

それと、もし中小企業診断士の方がこの記事を読んでおられたら、ぜひ上記の波頭さんの言葉を覚えておいてもらいたいと思います。



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2020年05月13日

リアルタイム。

「検察庁の法改正なんとか? に反対します」といったツィッターの投稿が相次いでいると知ったのが、月曜の朝でした。(正確には、#検察庁法改正案に抗議します)
”なんとか?”としたのは、この時点で、内容についてよくわかっていなかったからです。
それで少し、関心を持ってすぐに気づいたことは、たくさんの芸能人がこのツィートをしていたと話題になっているということでした。

すぐに、なんだかおかしいというにおいを感じました。
みんなが新型コロナ(私流には武漢ウィルス)について心配しているときに、どうして ”こんなピンポイントなことだけ” が ”急に” 話題になるんだろう、ということです。

加えて、メディアがこぞってそれを取り上げて、野党が国会で追及する。もうこれだけで、怪しすぎで思わず笑ってしまいます。

それはともかく。
その日の仕事を終えて家に帰ってちょっと検索してみたらすぐに、以前にもこのブログでご紹介した上念司さんの動画を確認。
この話は、これでもう終わりです。

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幽霊の正体見たり、枯れ尾花。

これまで、モリカケや従軍慰安婦など、過去に起こった出来事を蒸し返し続けるメディアをこのブログで検証し続けてきましたが、今回はリアルタイムで誰でも検証できます。
かねてずっと私が「メディア」のカテゴリーでお伝えしてきたことを確認していただけるいい機会です。
新聞・テレビは今現在も市民の声だと叫んでいますが、いつまでこのネタを続けることができるでしょう。


ところで、こんなふうに思ってしまっている人は、

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衆議院のホームページに掲載されている次の図を、もう一度よく理解して頂く必要があると思います。


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たぶんこうした芸能人の人達の中には、”デュープス(Dupes)”という言葉やその概念をまだ知らない人が多いのじゃないかと推察しています。
個人的には、”デュープス(Dupes)” はあまり使いたくないのですが、しかし、その言葉や概念を理解することが “メディア・ウィルス“ に対する抗体を持つという意味でとても大切なことでしょう。

武漢ウィルスに例えるようで不謹慎かもしれませんが、今回はメディア・ウィルスに抗体を持たない人が感染し、発熱してしまったようなものかもしれません。

かつて自分自身が立派な ”デュープス(Dupes)”だった私からの自戒も込めて。
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2020年05月10日

ユリ・ゲラー、もしくは川口浩探検隊

武漢ウィルスが猛威を振るいだして、自粛生活を余儀なくされるようになってから、よく自分で料理を作るようになりました。
これまで、ハンバーグ、お好み焼き、青椒肉絲 and so on
それで気がついたのですが、野菜は一つ一つ個性があって味わいがありますね。今まで肉や魚や酒ばかりに目が行っていたのですが、生の野菜はおいしいです。

今日はパエリアにチャレンジしました。
黄色いのは、パプリカ。その存在を初めて理解しました。


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見た目にはうまくいったようにみえたのですが、今日のは失敗。
お米が、下のほうは焦げすぎ、全体的には固すぎでした。で、結論的には、食べられたものではなかったです。。


そんな調理の間に、武漢ウィルスについての報道? = バラエティ? のような番組をやっていたのでしばらく見ていました。
チャンネルをそこで止めたのは、橋本徹氏が出ていたからです。橋本さんの意見は、論理的だし、一貫しているのでテレビだけでなくツィッターでもフォローはしています。
ちなみに、私がネット上でフォローしている多くの人達は、逆にテレビや新聞ではほとんど登場されないのですが。
たぶん、こういう人たちを出演させたら、テレビの舞台裏がグダグダになるとわかっているからでしょう。

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ところで、今日のタイトルです。
失敗作のパエリアもどきを、責任とって食べながら番組を眺めていて、唐突に、頭に浮かんだのが今日のタイトルにした、昔小学生くらいの時によく見た番組名です。

要はテレビ局にとっては、おそらく、武漢ウィルスも謎の巨大生物も、神秘のマジシャンも一緒なんだろうということ。

得体の知れないものに対して、わざわざ素人ばかり集めて、わいのわいの、盛り上げようとする番組の作り方がそっくりです。
子供の頃の私は、前夜テレビで見た川口浩探検隊の話題で、翌日の小学校の授業の合間に盛り上がることができました。私だけでなく全国の子供たちがテレビ局が作る幻影に、魅惑され続けていたのではないでしょうか。
ひょっとしたら、私たちは今現在も、ここでいう ”原始猿人バーゴン” を見せられているのかもしれないと思っています。
  ※繰り返しますが、私にもなにが真実であるかは判断できませんが、あらゆる可能性を考えながら情報収集しています。

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今日の番組に出演していた人たちもまじめに番組で出ておられたのだろうから、こんなことをいうのは申し訳ないとは思うのです。が、プロデュースする側のテレビ局の姿勢は、国民を小学生レベルに見立てたようなものです。
テレビを作っている人たちは、いまの時代でも同じ手法が通じると思っているんでしょう。たぶん。
というか、私たちの世界でいう「経営革新」をする必要がないまま、ずるずると組織運営してきたから、そうしたやり方しか知らないのかもしれません。


ところで、テレビではACのCMが増えています。おそらく、テレビ局の広告収入は減っていることでしょう。けれど一つのビジネスモデルとして、
「テレビで不安をあおれば(もしくはいい加減な情報をたくさん流せば)、もっと正確な情報がほしくなり新聞が売れるようになる」
というのはあるのかもしれません。

海外では、メディアの健全性を担保できないことから新聞社とテレビ局は経営が別なのですが、日本の場合はテレビ局の親会社はたいがい新聞社です。
国民は、もっとこうしたことにも問題意識を持って、賢くなる必要があると思います。




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2020年05月05日

いまお勧めしたい本 「夜と霧」

しばらく前に、この状況下にあってカミュの「ペスト」という本がよく読まれているというニュースを見ました。私はその本は読んだことがないのですが、自分だったらどんな本を今、お勧めするかなと考えたとき、すぐに思いついたのが「夜と霧」です。

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もうだいぶ前に読んだ本です。
内容は心理学者でありかつユダヤ人であった著者 ―ヴィクトール・E・フランクルー が第2次大戦下のナチ強制収容所で体験したことと、感じ考えたことを記述した本です。アマゾンでみると、500人以上の人が評価に参加していて、75%の人が星5つをつけています。相当、高い評価だと思います。本の紹介文には「言語を絶する感動」といった言葉が並んでいます。

けれど私の正直な感想を言えば、最初、読むのに苦労したし、感動を覚えはしませんでした。
一方で、ずっと心の中に残っていた本であったことは間違いないところです。

読むのに苦労したり、感動を覚えたりしなかった一つの要因は、この本にはおよそストーリーみたいなものがないからです。よく起承転結などといいますが、この本にはそうしたものが何もありません。
本の前半は、著者がアウシュビッツなどの強制収容所で体験した様々な出来事や感じたことをスケッチのように、たんたんと記述するだけにとどまっています。前後関係や背景の説明などもあまりないので、臨場感がいまひとつ伝わってこなかったというのも、率直な私の感想です。(ただ、新版と旧版では写真の有無などの違いがあって、理解度に差がありそうではあります。)

ただ、山というものがないというわけではありません。
この本の後半部分、フランクルが強制収容所に入れられた人間について彼独自の考察を述べる部分は力強くかつ印象的です。この部分が、今のこの武漢ウィルスの時代を生きる私たちに大いなる ”示唆と助け" を与えてくれることは、間違いないと思います。

何が言いたいかと言えば、フランクルたち当時のユダヤ人がいきなり無条件に強制収容所に放り込まれたのとまったく同じ状況に、現代の私たちも突然置かれたのだということです。
すぐ目の前に、死を感じ続けなければならないところも同じです。違いは、今の私たちには目に見えるリアルな壁がないだけです。
そんな私たちに、強制収容所のすべてを心理学者として見てきた彼の冷静な言葉が、有益だと思うのです。



そんな同書から、大切だと思うことばをいくつか抜粋してご紹介します。
(訳者の人には申し訳ないけれど、とても堅苦しい翻訳なので、できるだけ自分の言葉に置き換えて平易に読んでみてください。)


「元被収容者についての報告や体験記はどれも、被収容者の心に最も重くのしかかっていたのは、どれほど長く強制収容所に入っていなければならないのかまるでわからなかったことだとしている。」(P118)

「ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的をもって生きることができない。ふつうのありようの人間のように、未来を見すえて存在することができないのだ。そのため、内面生活はその構造からがらりと様変わりしてしまう。精神の崩壊現象が始まるのだ。」(P119)


この二つの言葉は、緊急事態宣言が曖昧なまま延長された私たちが、まさに今、経験しているのと同じことを言っています。
つまり、先が見えないことが最もつらかった、その場合、中には目的を持って生きることができなくなってしまう人も出てきて、時には精神的に参ってしまう、と書かれています。

一方、次の二つのことばはこれから私たちが理解し、受け入れ、実践したい言葉だと思います。


「『強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、私の真価を発揮できるときがくる、と信じていた』
けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人々のように内面的な勝利を勝ち得たか、ということに。」(P122)

「具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。
だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとないなにかを成し遂げるたった一度の可能性はあるのだ。」(P131)


そして、終息後に、おそらく私たちも体験するであろう言葉。

「そしていつか、解放された人々が強制収容所のすべての体験を振り返り、奇妙な感覚に襲われる日がやってくる。収容所の日々が要請したあれらすべてのことに、どうして耐え忍ぶことができたのか、我ながらさっぱりわからないのだ。
そして、人生にはすべてがすばらしい夢のように思われる一日(もちろん自由な一日だ)があるように、収容所で体験したすべてがただの悪夢以上のなにかだと思える日も、いつかは訪れるだろう」(P156)


できるだけ多くの方に、フランクルの言葉を理解してもらいたいと思います。






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2020年05月03日

武漢ウィルスについて思うことC 

今日は憲法記念日です。
憲法についてはこれまでも、次の二つを日頃から思ってきました。

1.「憲法を変えてはいけない」という人も多いんだけど、「PDCAをまわす」という考え方からすれば、それは違うはず。憲法についてはPDCAをまわしてはいけないという、何らかの掟でもあるのだろうか!?

2.憲法とは、私の理解では会社でいえば経営理念に相当するもの。だから、その国のありようとか、生き方を生き生きと明るく語ってくれるものであってほしいものだ。

この1,2は、経営について学んでいれば、至極自然に理解できる考え方だと思います。少なくとも私は、イデオロギーでなく、経営学を学んだ結果、自然とこの二つの考えに至っています。

けれど、世の多くの人は経営学からではなく、日頃からテレビや新聞から学んでしまっているので、これとはまた別に考え方になってしまっているのだと思います。
これは非常に残念なことです。

一方で、そうした人が増えてしまうのも致し方ない側面があります。1,2のような考え方を否定したい人たちが、世の中にはまだまだ多いからです。

新聞社をはじめとするメディアは、その典型例です。彼らは、「憲法とは、権力者(政府)を縛るもの」と勝手に定義して、その考えを大量生産してきました。多くの国民がそれを信じてきたのだと思います。
私からすればこれも残念なことなのですが、多くの人が「本当にそうなのだろうか!?」といった疑問を持つなど、自分の頭で考えることなく、こうした考えを受け入れてきてしまいました。
先日掲載した4月22日の記事で「まるで洗脳装置のようですね」と記しましたが、それと同じことが長年続いてきたといえるでしょう。

しかし、今回の武漢ウィルスによる災厄で、少し、こうした洗脳装置から解き放たれて、自分の頭で考える人が増えたようです。
昨日の報道によると、2年前まで、憲法改正賛成派と反対の数は拮抗していたけれど、今回の調査では改正賛成派が上回ったとのこと。

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「コロナの問題で、今の憲法で十分に対処できていないという疑問を多くの人がもったのかな(と思う)」という大学教授のコメントがその後にありましたが、その分析が間違っていないのであれば、今回のこの災厄は大変なものであるけれどこの点は数少ない光明の一つだと思います。





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2020年04月29日

相棒

先日、兵庫県の中小企業診断士協会で会議がありました。当協会では、地域の自治体と一緒に協力して、この困難な状況の中におかれた企業さま支援に可能な限り注力しています。
もちろん、協会活動とはべつに、個々の中小企業診断士がそれぞれに企業さま支援に尽力していることは、言うまでもないことです。

その会議が終わってから、どこで昼食をとろうかと考えたあと、久しぶりに元町のお気に入りのインド料理店に向かいました。

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その後、テイクアウトしたランチを持って、メリケンパークの公園へ。
広い海辺の公園で食べる、おいしいランチは最高でした。
ただ、後から気づいたのですが、この公園ではコロナ −私流に言えば武漢ウィルスー の影響で公園内の飲食は禁止になっていたようです。
「大変、申し訳ありませんでした。」と心の中で、つぶやきました。

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ところで、マウンテンバイクを1月に買ってからほぼ3カ月が経ちました。
いまではすっかりいい相棒になってくれた気分です。

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おかげで、行動範囲もずいぶん広くなって、いままで見逃してしまっていた風景や人に、少しずつ出会えるようになってきました。
たとえば、こちら。

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ランチを済ませた後、オリエンタル・ホテルの先まで走っていくと、先端で釣りをしている若い子がいました。
話を聞いてみるととても気さくに答えてくれて、80センチクラスのメジロともう少し小さいのが一本釣れたとのこと。
ちなみに、メジロというのはブリのことです。ブリは出世魚で、小さい方から、ツバス(30センチくらい)→ハマチ→ブリ(60センチくらい)→メジロとなります。その子に聞くと1メートルになるくらいのメジロも時に上がるとか。
それはすごい!

いつもすぐそばの会議室ばかりですごしていたのがちょっともったいない時間の過ごし方だったような気もしました。
今度からは会議の前後で竿を出そうかなと、少し真剣に考えてしまった次第。


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2020年04月26日

武漢ウィルスについて思うこと AとB

「現下の武漢ウィルスにょる災厄について、個人的に思っていることのいくつかを記してみたいと思います」の続きです。


A「令和2年の、武漢ウィルスによる災厄」
私は個人的には、今回のこの出来事を「令和2年の、武漢ウィルスによる災厄」と呼んでいます。
すでに世界中で「新型コロナウィルス」という呼び方が主流になっていますが、それをこの先も続けていくことは「中国による三戦」の成果に知らずのうちに屈服してしまうのと等しいのじゃないかと思うためです。
もし、「三戦」をまだご存知でない方がいらっしゃれば、ぜひこの機会にご理解下さい。今回の災厄の大きな根っこの一つであることは間違いないと思います。
中国はWHOテドロス事務局長の前、マーガレット・チャン事務局長の頃から、したたかにことを進めていたのだと認識しています。
私は、アメリカのトランプ大統領やポンペイオ国務長官が認識している問題意識は至極、真っ当だと思っています。

B大東亜戦争のときの繰り返し?
今回のこの武漢ウィルスとの闘いは、ひょっとしたら太平洋戦争、より正確に言うと大東亜戦争のときと同じ構図で進んでいくのではないだろうかという問題意識を持ってずっと見ています。
過去に、2018年3月22日のこの記事でお伝えしたとおり、大東亜戦争当時の日本軍は戦争終結への「グランドデザイン」なきまま、局地戦を重ね、戦略や戦術、そしてロジスティクスが不十分な中、現場の兵士のやる気と能力ばかりに依存する戦い −もちろんキスカ島撤退(樋口 季一郎中将)のように、すべての現場がそうであったとはいえないでしょうがー を続けることが多かったと思います。

それと同じようなことが、今回の武漢ウィルスによる災厄への対応でも表れてしまうのではないかと危惧しながら、日々のニュースを見ています。

そう思う理由は主に2つあります。
一つは大東亜戦争の振り返り(反省)を日本人自身の手でしてこなかったことです。「前に間違えてしまった。だけど、その間違い(もしくは失敗)の検証をした」、なら同じ過ちは繰り返さないでしょうが、それをしていないのであれば同じ失敗を繰り返してしまう恐れは強いのではないでしょうか。

その傾向は、すでに見えてしまっているように、私は思っています。
戦略性の欠如ー第1ステージでの水際作成の失敗や、「とにかく今をがんばりましょう」”だけ”の繰り返しー、意思決定とスピードの遅さ−残念ながら、「遅い・緩い・決められない」の三拍子は改善されるどころか今や多くの国民の共通認識になってしまっています、また、アメリカや欧州ではすでに経済政策を定めて、規模の大きな施策を実行しているのにいまだにそれができなことなどー が見えているように思います。
これらをカバーするために現場、つまりかつての「大東亜戦争のときの現場の兵士」、そして今は「私たちのような一般国民」の意識とやる気ばかりに依拠しすぎていないでしょうか。

個別の戦いで成果を出せなかった指揮官をそのまま居座らせてしまっているところも、当時と今とで共通しているなぁと思えています。

一方で、感情的に反応するよりも数値や論理で合理的に物事を判断しようとする人々もわずかながら存在していて、そうした方々の意見にも個人的には注意を払っています。
  ※ただし、それが正しいというか、より望ましい結果をもたらすかどうかは判断できませんが。
わかりやすくいうと、完全なロックダウンをせずに国を動かしているスウェーデンのような考え方です。
ただ、少なくともメディアや政府関係者などから、そうした考え方について検証しようという声が聞こえてこないのも、大東亜戦争の頃と似ている風景のような気がしています。
要は、みんなで一つの方向ばかりに向きすぎているんじゃないか、という気がするのです。(繰り返しますが、別のやり方が正しいかどうかは私にもわかりません。)

もう一つの理由は、上述のとおり、失敗の振り返りをしてこなかったから、当時と同じ統治機構のまま、今も世の中が動いてしまっていることです。
何を言いたいかと言えば、昨今盛んに言われている官僚による支配。
私たちの国を統治するシステムが、大東亜戦争の頃から改善されていないことによる弊害が、今、あらわになってしまっているように思えています。

少なくとも今の我が国のシステムからは、スプルーアンス提督のような指導者もしくは戦略家は出てこないだろうと思います。








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