2018年08月15日

終戦記念日

このお盆の間は、あまりどこも出かけずにゆっくり過ごしています。それで、普段はできないような片づけものをこなしたりもできています。
ふと気がついて、このブログのサイドバー(記事の右側)も少し、修正しました。
まず、プロフィールの中にまだ前の屋号が残っていたので、新しい社名に変えて、リンクを貼り直しました。
また、過去ログのランを新たに追加して、過去の記事を検索しやすくしました。
その作業をしていて改めて、「自分にしてはよく、(細々とながら)長年記事を書き続けてきたなぁ。」と思いました。
例えば、このシーズンですからよく他のアユ釣り師のブログを見るのですが、中には一時期、熱心に記事を上げていても、2〜3年でパタッと書くのが止まってしまっているサイトもあります。
まぁ、毎月2つから、多くて5つくらいまでの記事しか書いていないので、ほんとに「細々と、」なのですが。。

さて、今日は終戦記念日。
過去ログを作ったので、これまでこのあたりの日にどんな記事を書いていたのか振り返ってみると、2014年に今日と同じ「終戦記念日」というタイトルの記事を書いています。
この記事を読んでいただいた方がいらっしゃるとすれば、どのようなメッセージが伝わったかな、と改めて思います。

お伝えしたかったことの一つは、物事、特に私たちの将来を左右する大切な物事を論理的に考えることの大切さでした。
逆に言うと、多くの人が、先の太平洋戦争(もしくは大東亜戦争)について、いまだに ”ムードでしか” 捉えられていないんじゃないかと私は思っています。
こうしたムードづくりを担っているのが、既存の大手メディアでしょう。
この点については、NHKが一番熱心なんじゃないでしょうか。この時期、NHKはドラマ、ドキュメンタリー、ニュースなどあらゆる手法で「戦争はいけない」という ”ムードだけ” を、戦後何年もずっと、大量生産しています。

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別に「戦争はいけない」というメッセージを流すことは悪じゃないと思います。だけど、「じゃあ、それをどうやって防ぐのか、その現実的かつ具体的な方法」をあわせて考えられるようにするのが、大人の責任だと思います。
しかし、NHKをはじめ、多くの既存のメディアはそこを意識的(意図的)に、削除していると私は思っています。
その結果、多くの人々が、終戦後すぐの頃と同じ意識・思考のままで止まってしまっているのではないでしょうか。

どうしてメディアが意識的(意図的)にそんなことをしなくちゃいけないのかと、訝る向きもいらっしゃるかもしれません。私自身が、以前はそうでしたから。
大学を卒業し、新聞社を就職先に選び、働いていた21年間、そしてそのあとの数年間はずっと「メディアは公正で、世の中の正義のために存在しているもの」とばかり思っていました。
しかし、その職場を離れ、そしてインターネットで多様な情報を得て、専門的な書籍も買って自分なりの考察を深めるにつれて、今の日本の既存の大手メディアはそのような存在ではないと理解するようになっています。

一言でいえば、既存メディアの本質は、自分たちの既得権益をこれからも享受し続けたいだけだと思います。つまり、国民や読者に真実を届ける(報道する)なんてことは、二の次、三の次の話だということです。
・・・というか、「国民や読者に真実を届けると、自分たちの住みやすい世界を崩壊させることにつながることがある」と知っているから、「そうしたことにつながる事実は報道しない」と、決めていると理解したほうが、すっきりします。
こうした事例は、既存メディアの報道を、ネットで発信される情報をもとに検証していくと、いくらでも見つけることができます。(逆にいえば、ネットで情報をとらず、テレビと新聞だけを信じているとこうしたことがわからないままです。)
もちろん、現場にはジャーナリズムの理念を信じるまっとうな意識の記者もたくさんいるでしょうが、組織全体の本質の前ではちっぽけなものです。

そんな既得権益が生まれる始まりとなったのが、終戦からはじまるGHQの占領時代。
この間にGHQが(他のあらゆる分野と同様)メディアにも手を入れ、それに従うことで自分たちが安住できる場所を見つけたのが今のマスコミなんだと思います。

だから、過去のこのブログの記事でも触れたことがあるWGIP(War Guilt Information Program)や、プレスコードについて理解しないまま、国民がテレビや新聞を盲目的に信じ続けるのは、非常に危険なことだと私は思っています

アメリカが庇護してくれる時代にはその弱みはあまり目立ちませんでした。しかし、トランプ大統領がアメリカ第一を掲げて世界の警察官の役割を減退させる一方、中国や北朝鮮の脅威が増す時代にあっては、その弱みがもたらす危険性がますます増大しているんじゃないでしょうか。



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2018年05月12日

メディアが倒錯する理由

最近の既存のメディア、つまりオールドメディアを見ていて、つい思いついてしまう言葉。それが今日の記事のタイトルの言葉です。

コンサルタントとして活動するようになってから、言葉は常に、大切に扱っています。だから、例えば、こうした個人的なブログに書く場合であっても、その言葉の意味を辞書で改めて調べてから掲載するような注意を払っています。
辞書で、改めて倒錯という言葉を引いてみると、多分に性的な場面で使う言葉でもあるようです。しかしもちろん、私がこの場合にいう倒錯は、そういう意味合いはありません。

「外国(中国)の首相のメッセージは好意的に取り上げ、第1面でうやうやしく扱う一方で、自国の首相については日々、徹底的に批判することしかしない新聞社」
「長年、自社の社員がセクハラされていたことを知りつつ、つまりセクハラを前提とした取材を強要し続けながら、その自社のセクハラ体質を棚に上げて、政権批判に利用し続けるテレビ局」
「自らの周りの人間を虐殺し、数多くの日本人を拉致し続けている独裁者について、急に、血の通った人間味のある人物と称える報道を始めるテレビのキャスター達」
などなど。

私の感覚からすれば、どう考えてもまともじゃありません。
ネットの世界で情報をとっていると、こんなふうに私と同じ考え方をしだしている人が多く存在することも、わかってきました。


では、なぜいま、こんなふうに私の古巣のジャーナリズムの世界が異常なことになってしまっているのかということを、つい考えてしまいます。
ついと言いましたが、かつて私がこのブログで、「ジャーナリズムは私たちの社会の大切なライフラインのひとつ」とお伝えしたことを踏まえれば、ここをきちんと考えることは大切なことだと思っています。


根本的には、いま私たちが目にしていることは、3月14日の「問題の本質」という記事で記した通り、権力闘争だと思っています。

ではなぜ、そんなふうに権力闘争する必要があるのでしょう!? 
新聞社やテレビ局が嘘をつくはずがないし、国民のための良心的な、親しみやすい組織だと、多くの人が今も思っていると思います。
私自身が、つい数年前までそう考えていました。
しかし、インターネットをはじめとした多様なメディアで、自ら進んで情報を取って考えるようになってから、考え方が変わってきました。
それには、私がコンサルタントとして身につけた知見も大いに役立っています。例えばその一つが、組織についてのドラッカーの言葉です。
ドラッカーは、組織の根本的な傾向として、次の言葉を残しています。

”外の世界への奉仕という組織にとっての唯一の存在理由からして、人は少ないほど、組織は小さいほど、組織の中の活動は少ないほど、組織はより完全に近づく。
組織は存在することが目的ではない。種の永続が成功ではない。その点が動物と違う。組織は社会の機関である。外の環境に対する貢献が目的である。しかるに、組織は成長するほど、特に成功するほど、組織に働く者の関心、努力、能力は、組織の中のことで占領され、外の世界における任務と成果が忘れられていく”
                     「プロフェッショナルの条件」 P74

つまり、ドラッカーの考えを当てはめると、昭和の時代を通じて成功した既存のメディア業界は、組織として成長し、成功し続けてきたために、組織に働く者の関心、努力、能力が自らの組織の中のことだけで占領され、外の世界、つまり変化する世の中に適合することができなくなってきているということです。






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2018年03月29日

再確認

しばらく前にブログの見出しのところを、「元新聞社出身という出自から現代のジャーナリズムに危機感を持ちつつ、」という表現に変えました。
最近の状況から、こうした認識の大切さをますます実感しています。

以前にも書いたことですが、私がブログでこんなふうな記事を書いていても、私自身の事業にとって、マイナスになることはあっても、なんらプラスになることはないと思っています。
だけれども。
齢50を超えて思うのは、自分の利益つまり収入云々も大切ですが、それ以上に次の世代により良い世の中を継承していくことが同じくらい、またはもっと大切なんじゃないだろうかということです。

そんなふうに、より良い社会を作っていくためにまず大切なことは、「事実」、「真実」が正確に語られる社会にしていくこと。これはジャーナリズムの世界にいたときも、コンサルティングの仕事をしている今も、一貫して変わらない姿勢です。

それともうひとつ私の中で大切な価値観は、常に「公正である」ということです。
だから、例えば、正義の仮面をかぶりながらこっそり自分だけ利得を得るとか、みんなが汗を流している時に自分だけ楽して利益を得るとかいった姿勢は、自分の中ではあり得ない話です。

そうした視点で見つめながらここ数日、再確認したことは、既存のメディアの多くはやはり信用できないということです。

3月19日に書いた「やっぱり」という短い記事があります。
あの記事を書いた日、朝から国会の質疑応答を見て、私の中ではこの問題の8割方はもう解決した話になっていました。(残りの2割は確認するためのものでしたが、一昨日の佐川氏の答弁でそのうちの半分は明らかとなりました。つまり、政権の関与の有無についてです。残りの半分はおそらく財務省内で官僚たちが抱える問題で、だからここは証言拒否となったのだと思います。)
その根拠となる質問をしたのは自民党の和田議員でした。彼は、事実と的確な推論をもとにして”現政権と緊張関係にある”財務省の役人から、真実を引出そうと誠実に努力していました。(これはあくまで、私の率直な”感想”です。)
しかし、翌日以降のメディアは、彼の成果と言える本筋の質疑は一切無視して、逆に彼を非難できるような些末な質問だけを ―ほとんどすべてのオールドメディアが同じようにー クローズアップし、彼をバッシングし続けました。
そんな様子を見て私が思ったことは、彼がこれだけバッシングされたということは、よほど真実に近付いていただんだなということです。
だから、オールドメディアにとっては都合の悪い人物だと認定されてしまって、あんなバッシングにつながったんだと思います。

事実や真実、そして公正さがないがしろにされる社会ほど怖いものはないと思います。私たち自身がしっかりと、そのことを意識する必要があるのではないかと思います。









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2018年03月19日

やっぱり

今日は午前中、時間がとれたので、国会答弁をリアルタイムで見ていました。
そして今、朝日新聞のネット版を見たのですが。。

やっぱりとしか、言いようがないですね。
もう、救いようがないかもしれないなぁ…というのが、率直な印象です。
posted by y.i at 18:21| 3.メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月14日

問題の本質

週末のテレビでわりと著名なコメンテーターが、「問題の本質は官邸主導主義の陰である」とコメントしたそうです。
しかし、私の理解は違います。今回の(というかいつもの)騒動の本質は、「権力闘争」だと理解しています。

その権力は、今回は3つあります。
いつも私がたとえている企業でいえば、社長と、広報担当専務と、財務担当常務の派閥争いのようなものですね。
代々、取締役たちと仲良くやってきた歴代の社長とちがって、今いる社長は、就任当初から改革に意欲的な人でした。
そんなだから、社長と経費引き締め第一の財務担当常務の間ではこれまで、「ゾーゼイ」を巡って対立的関係にありました。
社内で隠然たる権力(既得権益)を持ってきた広報担当専務もまた、「社内を改革する! 今の体制のもととなっている経営理念も例外ではない。」「ホーソーホーを変えて、広報の体制も変更したい」と宣言した社長に対して危機感を抱き、ここ数年、大バトルを演じてきている状況です。

そんななか、広報担当専務が”得意の文章力”を使って、「経理課員の失策を確認した」と社内で発表したのがつい先日です。
この会社の社員たちは、長年の体質から、
「事実かどうか、自分の目で証拠を見てからしっかりと判断する」
「だれが、どのような意図で、その失策を犯したかを理性的に判断する」
「物事の軽重を客観的に判断する」
ということを考えるより、
「まず社内で配付されている社内報を信じる」という傾向があるようでした。

それを良いことに、専務の息がかかった広報やマーケティング職員たちが、「社長の責任は重大である」との社内報をじゃんじゃん、まき散らしているのが現状です。
なので、社内はその噂話で持ちきりです。長年、専務の鉄砲玉みたいな社員もいて、この人たちが先頭を切って、社長室に押しかけているのは、言うまでもありません。
現状では、”得意の文章力”をほんの少し駆使しただけで、社長の人気がどんどん下がっているので、専務一派はほくほくです。

同じ業界内では、強力なライバル企業が大攻勢を仕掛けてきているというのに。。。

どの派閥にも属さない、末端の一社員の私としては、もし本当に社長が何等かの意図をもって、経理課の中に手を入れて、操作をしていたという証拠が出てくれば、社長を非難するでしょう。
しかし、現在のところはそのようなものは見当たらないので、早くまともな会社に戻ってくれないかなぁ、と願っているところです。


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2018年03月09日

いつものパターン

いったい、いつまでこんなことを続けるのかと思います。

例えば、今、この記事を読んでいる方のなかで、加計学園のことのどこが、どう問題だったか、きちんと説明できる人がどれだけいるでしょう。あの話のどこが、どのように問題だったのでしょう。
現実的な話として、あのことはもうほとんど話題にもなっていません。

私は、2017年6月1日の「日々、疑問A」という記事で、こう記しました。
「今回の加計学園の記事が朝日新聞の第一面にセンセーショナルに一番最初に出たときも、その中身を読んで思ったことは、『この内容で記事にするのは無理だ』ということでした。」と。
その後の記事ではさらに私は、「前川文部事務次官の名前を、1年後に覚えている人はほとんどいないでしょう」とも書きました。あの当時(といっても去年のことです)、朝日新聞の記事にあれほど踊った前川氏の名前は、いまは露ほども私たちの目の前に現れてはきません。

そして再び、同じ構図で世間が騒いでいるようです。
思わず、ため息をつくしかありません。
いずれの場合もワンパターンで、朝日新聞が「疑惑である」と書きたて、それにつられて野党とテレビをはじめとするオールドメディアが大騒ぎ。

これまでこのブログでささやかながらお伝えしていることのひとつは、企業経営も国づくりも、根本はおなじということでした。
それでいうと、いい会社は意識が外に向いており、だめな会社は意識がいつも内向きで、部門間で互いの足のひっぱりあいばかりしているものです。

一省庁の作った文書について、ただの一私企業にしか過ぎない新聞社が、明確な根拠もなく示した記事に大騒ぎしている間に、外の世界では日本の安全保障にかかわる大きな問題が急展開しています。

このささやかなブログを見続けてくださっている方がいるとすれば、私が昨年の2月頃から、北朝鮮の脅威に大いに不安に思っていたことをご理解いただけるのではないかと思います。その観点から振り返ると、森友文書なるもので大騒ぎしている人たちは、私のような市民の不安について、一体どのように考えているのかと思ってしまいます。









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2017年12月28日

朝日新聞A

今年の7月31日に書いた「私が考える森友・加計の本質」という記事で、私は、朝日新聞社について「一私企業に過ぎない新聞社によって、不当な方法で、民主主義が歪められたことだと私は思っています。」と記しました。

その後、10月下旬に小川榮太郎氏による「『森友・加計事件』 朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」という書籍が発刊され、小川氏も上記の私とまったく同じ認識であることを知りました。
その小川氏を、朝日新聞社は先日、「事実に基づかない内容で本社の名誉や信用を著しく傷つけた」として提訴したのですが、これに関して私が思ったことはふたつあります。

一つは、これまで数多くの虚報や、本来報道すべき内容について恣意的な情報隠しを重ねてきた会社(加計報道で、今も続いています)が、同じ理由を掲げて他者を訴えるというのはなかなかアイロニカルな話だということ。
もうひとつは、そもそもジャーナリズムを標榜し、政治家や他の企業をさんざん批判する会社が、自分が批判されたからといって司法の場に訴えるというのは、本末転倒であるということです。
ジャーナリズムの誇りを、自ら捨て去る行為だと思います。

おそらく、私が普段お付き合いさせていただいている方の中にも、朝日新聞社はいい新聞だと思っていらっしゃる方がたくさんおられると思います。そうした方からすれば、私のこの原稿は不快に思われることもあるでしょう。その点については、非常に心苦しく思います。
この点について、思うこと・お伝えしたいことが、あと二つあります。

1.11月2日の「朝日新聞」という記事で詳しく書いたように、もともと私は、朝日新聞をいい新聞だと思い続けてきたし、サラリーマン時代、同社とは仕事上での一定の友好的なお付き合いもありました。つまり、私も以前は朝日ファンの方々と同じように好意的に見ていたということです。

2.私のようなサービス業に従事する者は、ネット上で当り障りのないことや、自分の仕事のPRになるようなことだけ書いているほうが、無難なのは間違いないでしょう。では、そんな私がなぜこうした記事を書くのかというと、その第一の理由は、既得権益を守ろうとするオールド・メディアが真実を隠したり、(国民の利益よりも)”自分たちだけの利益”になるような報道を繰り返したりすることによって、私たちの民主主義がいま、非常に危うくなっていると考えているためです。




posted by y.i at 21:49| 3.メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月19日

平成29年を振り返る

そろそろもう、師走も半ばに入っていきます。いろんな場面で、今年を振り返る機会が増えていくと思います。
私の個人的なことを振り返ると、独立してからこれまでの9年間ほどは、中小企業診断士もしくは経営コンサルタントととしての仕事だけに邁進というか、その世界のことだけを考えて自分なりに切磋琢磨することができた年月でした。
考えてみれば、これは大変幸せなことだったと思います。自分がこれ! と定めたジャンルの世界だけで、自己実現することだけを考えていれば、よかったのですから。

これは、マズローの欲求5段階説でいえば、最上位にある「自己実現の欲求」だけに注力できていたということなのでしょう。

しかし、今年は相当、様子がちがってしまっていました。
マズローの欲求5段階説でいえば、もっと下位にある「安全の欲求」あたりのことにまで、気を回し続けなければならなかったからです。
つまり、日本人としての「安全について」過去これほどまでに危険を感じ、真剣に考えたことがなかったという一年でした。その原因は、2つあります。
一つは、北朝鮮のこと。これについては、もうほとんどの日本人が、理解している話題だから、多くを語るまでもないでしょう。

もう一つは、既存の報道機関が(私からみれば)本当に狂ってしまって、私たちの大切な民主主義を冒涜し続けていたことだと思っています。

かつて、私がジャパンタイムズという会社にいてその経営状況に危機感を抱き、懸念を社内で表明した時、このような考え方をしていた私は少数派であり、私ほどには危機感を感じてはいない周囲の多くの社員たちから強い反発を受けたものでした。
それと同じような状況が、今の日本の報道を取り巻く世界で起こっていると思います。

つまり、これだけ歪んでしまった報道界の異常さを目にしているにもかかわらず、それを正しく理解している国民が、あくまで少数派であると私は思っているということです。




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2017年11月02日

朝日新聞

大学生の頃、ジャーナリストになりたいというささやかな希望というか、夢を持っていました。その頃の就職希望先の最上位にランクしていたのが、朝日新聞でした。その後、自分の中では夢かなわず、ジャパンタイムズという一般にはあまり知られていない小さな新聞社の、広告営業マンになりました。
ただ、そのジャパンタイムズと朝日新聞社とは、協力関係というか友好的な関係にあったことから業務上、よく朝日新聞の関係先を訪れることもありました。だから、サラリーマンの頃は朝日新聞社を近しく感じると共に、いい会社だとずっと思い続けていました。

しかし、数年前から、この会社に対する見方は180度、変わってしまいました。

それは、「個人としてジャーナリズムを発信する人」の言葉を、インターネットでフォローできるようになったことがとても大きいと思っています。

そして、今年に入ってからの森友・加計です。
例えば、加計のこと(”問題”とは、呼びません。ここで安易に”問題”と呼ぶのは愚かだと思います。)については、私は当初からこれを(政府の)問題(過失)として扱うのは無理があると発信してきました。
そして、6月1日付の「日々、疑問A」の記事では、「今後の展開を見ないと早計に判断はできませんが、朝日新聞は吉田証言のときとまた同じ道を歩んでいるのかもしれないと思っています。」と記しました。今、私が確信していることは、朝日新聞社は「吉田証言のときとまた同じ道を、”意図的に”歩んでいる」ということです。

今はもう、残念ながらこの会社を報道機関と呼ぶのは、完全に間違いだと考えています。

そのことを、私などが語るより、しっかりと論拠を示しながら正しく伝えている書籍が、10月下旬に発行された「『森友・加計事件』 朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」(小川榮太郎著)です。

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この本の結びには、こう記されています。

「主犯は朝日新聞であり、強力な共犯者がNHKと文藝春秋だった。朝日新聞が使った駒は前文科次官の前川喜平であり、民進党などの反安倍野党である。彼らはそれぞれの思惑やイデオロギー的な理由から、安倍晋三を叩いたつもりかもしれない。だが、それは違う。
本当に破壊されたのはデモクラシーそのものであり、その基盤となるべき主力言論機関の信頼性である。
(中略)
半年間の彼らが量産した虚報が、本当にコケにし、否定したのは安倍晋三でも安倍政治でもない。日本の主権者たる国民であり、日本の民主主義そのものだったのである。」

この言葉は、まさしく私がこの半年間、ずっと感じてきたことそのものです。
大切なのは最後の2行。「(朝日新聞社が)本当にコケにし、否定したのは日本の主権者たる国民であり、日本の民主主義そのもの」というところです。

ほとんどの国民は、忙しい日々の生活や仕事があるから、いちいちこんなことを考えてはいないだろうと思います。けれど、特に今年に入ってからのマスメディアの暴走は、私たちやその子供たちの将来に、重大な影響を与えると思います。
わたしにとっては、「思う」というか、「真剣に危惧する」という認識です。





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2017年10月12日

真の権力者は誰なのか!?

昨日は、この前の記事で記載したような状況で帰宅しました。そしてテレビのスイッチを入れたら、報道ステーションで党首討論をやっていました。これに関して、感じたことが二つあります。

その二つの前に。
討論会の中で、安倍首相が「メディアでは事実が報道されていない」旨を発言していました。おそらく、”生出演という、メディア側が編集ができない状況の中で偏向報道を指摘する”という方針だと思います。他の討論会でも、同様の発言が見られましたから。
それはまさしくそのとおりで、私が書いた7月10日の記事を改めて紹介するまでもなく、偏向振りはひどすぎたと思っています。7月10日の「報道ステーション」では、加戸元愛媛県知事の閉会中審査での答弁はまったく報道されませんでしたから。
同番組では、前川氏(ご本人自身は、すでに過去の人になりつつありますね。メディアからすれば、そのとき使える駒でしかなかったのだと思います。)の発言ばかりを取り上げていました。

こうした状況は他の番組でも同様で、「放送法遵守を求める視聴者の会」によれば、テレビが取り上げた加戸、前川両氏の発言時間は、次の通り、大差があります。

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しかし、昨日の番組の中で、アナウンサーは「それは紹介しています」と発言していました。やってもいないことをよく、「やった」と言えるものだと思います。
末端かつ隅っこではあったけれど、元報道人の端くれだった私としては、信じられない思いです。今の時代は、ネットですべて流通するし、保存されているというのに。
私が若い頃に憧れて、21年間をすごした報道界がここまで落ちてしまったか、という思いです。

ところで、番組を見て感じたことの一つめは、まるで公開の場での(あまりいい言葉ではないですが)吊し上げを見せられているようだったということです。「党首討論会」といいながら、半分以上の時間がモリカケ追及に費やされていましたから。私には、普通の生徒を体育館の裏に呼び出して、不良仲間がその生徒を一方的に攻め立てている図にしか見えませんでした。

キャスターもコメンテーターも、”もし自分がジャーナリストだと思うなら”、決定的な証拠や証言を、自分たちの力で取ってくるべきだと思います。
それをしないで、「総理が証明するべき」と言いつづけるのは、この後に示す権力者の行動と全く同じです。

そのもう一つというのは、この討論会を見ていて、ある人物を思い出したことです。その人物の名前は、エルヴィン・ロンメル。”砂漠の狐”と言われた、ドイツ軍の将軍(元帥)です。

ロンメルは、第二次大戦のヨーロッパ戦線およびアフリカ戦線における英雄でした。ドイツ軍だけでなく、連合国からも知将として一定の尊敬の念を持たれていました。
しかし、シュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺未遂事件のあと、ロンメルもヒトラーから、暗殺首謀者の一味の一人だとして、あらぬ疑いをかけられます。その理由とされたことの一つは、ヒトラー暗殺派の一人が死の間際にロンメルの名前を口走ったことだったりします。(首相と理事長が友達だったというだけで、疑惑とされている状況と同じです。)

ロンメルはもともと根っからの職業軍人であり、ナチでもなければ、反ヒトラーの急先鋒でもなかったのだと思います。しかし、時の権力者であるヒトラーから掛けられた疑いに対する身の潔白を証明する術がないと知ったロンメルは結局、強制的に自殺させられました。別の言葉を使えば、粛清されたということです。

これと同じことをしたのが第2次大戦中、ソ連の絶対権力者であったスターリンで、この権力者のために無数の無辜の人々が粛清されました。

何が言いたいかといえば、要は「権力者はその脅威となる相手に対して、自らが決して証明できない疑いをかけて、これまでにたくさんの人々を抹殺してきた」ということです。

私の理解では、今、国民の目の前で展開されている状況は、これとまったく同じです。
今回でいえば、権力者は政府でも政権でもなく、新聞・テレビといったメディアであり、自分たちの生存環境を脅かす相手を、正当な根拠なく、排除しようとしている状況だと思います。

もう少し別の見方をすれば、現政権が新しい価値観をもたらそうとしていることに対して、新聞・テレビといったメディアが、抵抗勢力になっているということです。
実はこれは、企業支援の現場でも、よく見る光景です。







posted by y.i at 22:08| 3.メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月27日

情けない話。

私自身が書いた過去の記事の振り返りが続いてしまいますが。。。

7月10日に「加戸前愛媛県知事の言葉」という記事を記しました。
この記事の中で、報道ステーションのキャスターの写真とともに、「常々思うのですが、この人たちは自分の仕事の意味を本当に理解したり、仕事に誇りや矜持を持ったりできているのでしょうか。
私には、そうではなくて、『会社(放送局)の”恣意的な方針”に沿うこと』〜中略〜が大きなテーマの一つになっているだけのように思えます。」と記しました。
書いたあと、我ながら、相当辛辣に書いてしまったな、と思ったりしていました。しかし、これが私なりに考えた実感なのでした。

そんな私の実感が、誰の目にも明らかとなったのが、一昨日のTBSのニュース番組内での出来事でした。
すでにネット上ではたくさん話題になっているのですが、「ニュース23」というその番組の中で、安倍首相とのインタビュー中に、キャスターの耳元にあったイヤホンから、「2人でモリカケ!」という声が大きく響き渡ってきたんですね。これは、本来は拾ってしまってはいけない音声だったのですが、果せるかな、その音声が流れた途端、男性と女性2人のキャスターは慌てて安倍首相の話を遮って、いわゆるモリカケ問題を追求しようとし始めました。

このキャスターなる人は、元々は”新聞記者として鳴らしたとされる人物”。本来ならまともなジャーナリズムを体現すべき大人が、テレビ・ディレクターの操り人形でしかなかったという、本当に情けない話です。
ここで私の実感をさらに書くとまた辛辣になってしまいますが、このキャスターさんにはサラリーマンの悲哀のようなものを感じてしまいます。しかし、もし政治家が命がけで仕事をしているのであれば、そうした政治家を時には批判する立場にあるジャーナリズムに関わる人間も同様に、命がけで、例えば自らの雇用主であるテレビ局とも対峙すべきであると思います。
ジャーナリストが、今回のように操り人形のままで仕事をするということは、自らの仕事を軽んじているというか、読者や視聴者への裏切りだと私は思います。

この「2人でモリカケ!」というキーワードで検察すると簡単に、その経緯や画像を知ることができるのですが、その過程で加えてわかったことは、他の党首にインタビューする時にはそんなイヤホンは付けさせられていないのに、安倍首相とのインタビューとのときだけはそのキャスターはイヤホンを付けさせられているということ。

しかし、”情けない”だけで片づけらないのは、その直前の「東京都議選の結果を見て、思うこと」の記事で記したように、こうした恣意的な操作で私たちの世論が簡単に変わってしまうということです。

私たちの世論が変わるということは、大切な、私たちの将来の社会が変わってしまうということですね。

衆院選を控えていながら、こうした矜持や志なき印象操作が行われているのが日本の報道界の現状です。したがって、私たちが理解しておくべきメディア・リテラシーの第2は、「”現状の”日本の報道界の実態は、今回のように、ジャーナリズムの正しいあり方に沿ったものではないと知ること」だと思っています。

   

posted by y.i at 22:49| 3.メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月22日

経営コンサルタントの視点で考えてみる・少し修正しました(緑字部分)

これまでに何度か、このブログで「国造りも、会社造りも同じ」という考えを記してきました。最初は、昨年6月に書いたこの記事です。
そして今は、その思いをさらに強くしています。
要は、経営コンサルタントとしての知見を活用して、今の私たちの社会や国が置かれた状況を見つめると、とても理解しやすいということです。

例えば、経営学で学んだ理論の一つに、「ゆでガエル症候群」なるものがあります。これを簡単に説明すると、「カエルを熱湯の中にいきなり放り込むとびっくりしてすぐに逃げ出すけれど、最初は普通の水に浸けて、徐々に温度を上げていけばカエルはそのことに気付かず、最後は茹で上がってしまう」という話です。これは大抵の場合、大きな組織の意識を変革させることの難しさを理解するときに学ぶ理論です。

この理論が私たちの社会や国にどう適用できるのか。
おそらく多くの方がすぐに理解されるのではないでしょうか。つまり、今の日本がまさしくそのとおりなんじゃないだろうか、ということです。

今日、私はフランスのスポーツ担当大臣が韓国で開かれる冬季オリンピックに選手団を派遣するのを拒むという小さなニュースを目にしました。また、どこか外国のバンドが9月に日本に来るはずだった演奏公演をプロモーターがキャンセルしたというニュースも目にしました。
つまり、世界の普通の感覚の人達からすれば、私たちが住むこの地はあり得ないほど危険だと認識されているということなのでしょう。
ここでは、フランスのスポーツ担当大臣が突然、熱湯に放り込まれたカエルですよね。もう一方といえば、私たちのことです。

2014年8月に書いた「終戦記念日」という記事の後半で私は、
「市長をはじめ、多くの日本人が、戦後ずっと平和だったと考えていると思います。
私もそうでした。でも、本当にそうなのでしょうか。
北朝鮮という国は、ずっと戦争をしている意識で様々な活動を行っています。当然、日本に対してもです。その結果、多くの日本人が拉致されてしまったのは周知のとおりです。」
と書きました。(この部分の初出が3年前でした。)
正直なところ、こうした考えを得たのはここ3年ほどのことなので、私自身がこれまでずっとゆでガエルになりつつあったんだろうな、と思っています。

ところで、こんなふうに茹で上がってきたのに、どうして誰も気づかずにずっと時間が経ってしまったのかということを考えると、そこにメディアが果たした役割は果てしなく大きいと、やはり考えざるを得ません。
(もちろん政治家の果たした役割も大きいでしょうが。)
私が考えるのは常に、正しいジャーナリズムが育っていれば、それは世の中の役に立つはずだという視点です。しかし、既存の新聞社やテレビ局がそのような役に立っているとは到底思えないのが、現実だと思っています。

というよりむしろ、日々、新聞やテレビは私たちをゆでガエルのままにしておこうとしているようにしか、思えないですね。それはなぜかというと、以前にも記しましたが、読者を変えてしまうと、自分たちのビジネスが成り立たなくなることを本能的に理解しているからだと思っています。

そんな「ゆでガエル」化を促進するための言葉だと思う例をひとつ。
「今はもっと話し合いをするべきときだ。」
よく社説の末尾の言葉で見かけますね。
いままでさんざんこうした言葉を見かけてきましたが、現実は悪化するばかりで推移しています。なぜそうなってしまうかといえば、こうした社説は綿密な分析のもとに書かれたものではなく、ただ常套句として使われているだけだからなのでしょう。
私たちが気をつけないといけない、つまり「メディア・リテラシー」を発揮しないといけないのは、盲目的にこうした言葉を信じるのではなく、自ら論理的に判断する力を持つということです。
これが、これまでに何度も私が使った「メディア・リテラシー」に関して、お伝えしたいことの第一です。


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2017年07月31日

私が考える、森友・加計の本質

先ほどの週末のオフモードの記事から、今日は月曜になってオンモード。
仕事関係では、今日は研修会社さまの社内勉強会に終日参加していました。

それ以外の隙間時間で、これまであれこれ書き連ねてきたメディアのことについて、いろいろ整理して考えました。といっても、わざわざ机に向かって考えたのではありません。ビジネスのことにせよ、何事にしても、日頃からあれこれ考えていると、例えば電車に乗っているときなどにふと、勝手に頭の中で考えがまとまるような瞬間があるものなのです。

今回の森友、加計のことでいえば、一番の問題は「朝日新聞をはじめとする既存メディアが、選挙で選ばれた民意を、嘘や恣意的な報道によって変えようとしていること」つまり、「一私企業に過ぎない新聞社によって、不当な方法で、民主主義が歪められたこと」だと私は思っています。これは極めて重大なことで、一般の企業がこんなことをやれば、完全なコンプライアンス違反、というか、社会に与える影響の大きさを考えると、コンプライアンス違反なんていうレベルの話ではありません。

思えば、私がジャパンタイムズに勤めていた頃は、朝日新聞と同社が協力関係にあったこともあって、私自身朝日新聞社によく出入りしていたし、最も信頼できる新聞社だと思っていました。
いまは、そのような思いはまったくありません。
でも、多くの人々が今も、私がかつてそう思っていたように、「朝日新聞社は良識の府だから、おかしなことを言うはずがない」と考えているだろうと思います。

物事は、時にシンプルに考えた方がわかりやすいことがあります。

結局、朝日新聞の経営者は彼らなりの経営努力をしているだけなのでしょう。今、同社の部数も下落の一方です。それを、食い止めたたい=部数を維持したい=というのが、一番の関心事だと思います。
そんな状況になれば、マスメディア以外の一般の企業なら、日々変化する外部環境に合わせて新たな顧客ニーズを分析・把握し、それに合った製品やサービスを開発しようとします。つまり、自分が変わる努力をするわけです。これが、「革新」につながり、社会が進展し豊かになります。
しかし、新聞社はそうは考えません。
なぜなら、自らが作り出す記事や報道によって、自分たちが変わる必要がないまま顧客(社会=読者)の考え方をコントロールできると知っているからです。

 (経営革新も、かれらには理解しがたい概念でしょう。)
新聞社以外の、例えば食品メーカーがそんなことをしようと思えば、たくさんの広告を出す、つまり多額に資金が必要になります。しかし、新聞社の場合は、自社の紙面を使ってただでそれができるのです。

もう少し背景を探れば、朝日新聞や毎日新聞といったメディアは、これまでGHQが定めたWGIPが存在する日本で、環境適応してきました。
その中で、コアな読者を育み、そのコアな読者が喜ぶ記事を書くことで、部数を維持してきたわけです。
だからその状況を維持することが、自社の利益になると考えているのだと思います。

しかし、現安倍政権は、憲法改正を明確に主張しました。これは自分たちの存続できる環境を脅かすことです。
その途端に加計問題が朝日新聞の一面を踊りました。
結局のところ、ジャーナリズムを守るとか、社会の木鐸とか、権力の監視とかといった聞こえのいい言葉ではなく、自らの存続だけを考えた行動原理になっているということです。

この辺りの事実関係を、昨日の門田隆将氏の次のブログはわかりやすく記してくれています。
http://www.kadotaryusho.com/blog/index.html

こうしたことを理解する他の多くの識者も今、「メディアは報道機関としての役割を放棄して、単に倒閣運動をしているだけだ」と記しています。例えば、この記事などです。
付け加えれば、根本的な問題として、多くの読者が今もあると幻想しているであろう”ジャーナリズムの志や矜持”が劣化しているというか、そもそも今はもうない、ということなのだと思います。

たぶん、”朝日新聞社の経営陣の努力”が短期的には実を結んだとしても、上記の門田氏や名もない私が書く、こうしたネット上の記事が、中長期的にはダメージになっていくと思います。
ちゃんと、自らの本分に沿った新聞社であり続けてくれていれば、私はこんな記事はかかないで済んだはずなのですが。










posted by y.i at 21:27| 3.メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月24日

「メディアの死」元年

先週も、企業経営のセミナーがありました。経営者さま向けのこうしたセミナーでは、「経営環境の変化」を最初に話題にすることがあり、その具体的な事例としてちょくちょく話題に出すのが、1990年代後半はどんな年であったかということです。

1998年は、金融危機の最中にありました。
また、この頃、インターネットが本格的に普及し始めました。

それから、約20年が経って、メディアを取り巻く環境が、激変しています。
それを簡単に言うと、世論に影響を与える情報を「メディアが独占していた時代」から、そうではない時代、つまり「ネットでみんなで共有できる時代」への転換です。
その大きな変化が、私のような新聞社出身の者に、メディアの有り方に対する疑問を投げかけています。

このささやかなブログの元々のコンセプトは、「経営に関することや、人の成長に関することを、前向きに語りたい」というものでした。
だから本来は、そうした話題だけ、明るく楽しく語るだけでよいはずでした。

しかし、現代に生きる私たちにとって、「情報」は、水や食料や、エネルギーと同じように、貴重な財産であり、社会インフラです。
その大切な社会インフラが棄損されてしまっては、私たちに未来はないと思います。
そのことに気づいたら、皆さんならどうするでしょう。
私の場合、職業人としての私にとってコンサルティングという仕事はもちろん大切であるとともに、社会に生きる大人として、こうした社会インフラを守ることも同じように大切だという思いを強くしています。

だから、そのことの意義を考えるから、元々のコンセプトに反すると思いながら、また、経営コンサルタントとしての自らの事業にマイナスになることはあっても決してプラスにはならないだろうと思いながらも、こんなささやかな愚考録を発信しています。

今日、明日とまた、加計学園の件で、国会やテレビで大騒ぎしています。私は、6月31日に書いた記事で、「加計学園のことをこの内容で記事にするのは無理だ」と記しました。
この点については、前回の元愛媛県知事加戸さんの証言で、すでに十分に明らかなことです。
しかし、この加戸さんの議会での前回の証言は、多くの既存メディアから抹殺されてしまいました。

多くの、私が心あると思う人々が、このことについて非常に大きな懸念を抱いているのが、今の「情報」という大切なライフラインを取り巻く状況であると思っています。

わかりやすい例でいうと、今朝の産経新聞社の阿比留瑠比氏は、今日のネット版の記事の中で、「平成29年は後世、マスメディアが自分たちの存在価値・理由を自ら否定し、自殺した年として記録に残るのではないか。」と記しています。

おそらく、今を生きる私たちの多くはこの変化をあまり意識しないまま時を過ごしていくと思います。しかし、30年後、50年後の人々がこの時代やこのことを振り返るとき、ここで記したことは今を生きる多くの人が思うよりも、非常に大きな意味を持っていると私は思っています。

冒頭で、「約20年が経って、メディアを取り巻く環境が、激変しています。」と記しましたが、逆に言えば、たった20年でこんなに変わってしまっているのです。これからは、さらに加速すると思います。




posted by y.i at 21:29| 3.メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月10日

加戸元愛媛県知事の言葉

閉会中審査なる言葉は、今回初めて知りました。
その様子は、youtubeで確認したのですが、最も印象に残ったのは加戸元愛媛県知事の言葉と、それを語る時の加戸さんの思いのこもった様子でした。

IMG_4149.JPG

次の言葉は、答弁の一部をそのまま記したものです。

「私は霞が関で30数年生活いたしました。省庁間折衝ってあります。自分の思いを、省を代表して、激しい言葉も使い、場合によっては虎の威を借りる狐のような発言もあり、でも事柄が決着した後は酒を酌み交わして、お互い、『あぁ、あんたもきつい言葉を使ったね』と言いながら、決まったことに対しては次の施策にむかっていく。これが霞が関の文化でした。
今回は、霞が関の文化が感じられません。時代が変わったんでしょうか。少なくとも、日本国民にとって、時代の潮流の中で、どこが何を求めているのか。それに対応するにはどうすればいいのかを、考えることであって、私は本質の議論がされないままに、こんな形で獣医学部が玩具になっていることに、はなはだ残念に思います。」

氏がここでいう「本質の議論」は、獣医学部新設の必要性とそれを長年排除しようとしてきた文科省のあり方であり、「虎の威を借りる狐のような発言もあり」の部分は、霞が関の文化では上(政権など)がこう言っているから、と相手を説得することがよくあることだったということです。

私が前回の記事でお伝えした”メディア・リテラシー”に関連することでは、次のように語っておられました。

「特に、今回の規制緩和に関して、心の一点の曇りもなく、たくさん、今まで私のところに取材がありましたけれども、都合のいいことはカットされて、私の申し上げたいことは取り上げていただいたメディアは極めて少なかったことを残念に思いますけれども、あのyoutubeが、すべてを語り尽しているのではないかなと、思います。」

つまり、たくさんの人が取材に来たけれども新聞テレビでは本当のことはカットされ、ネット(”あの上youtube”の部分)だけが真実を伝えてくれたと仰っておられるわけです。

実際のところ、これらの加戸さんの発言は今夜の「報道ステーション」ではまったく報道されませんでした。
これなどは、「@ 本来ならしっかりと伝えるべきことを、意識的に伝えない。」いい例です。

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常々思うのですが、この人たちは自分の仕事の意味を本当に理解したり、仕事に誇りや矜持を持ったりできているのでしょうか。
私には、そうではなくて、「会社(放送局)の”恣意的な方針”に沿うこと」、「今いる視聴者に受ける映像と言葉を流して、少しでも視聴率を上げる(受ける放送をする)こと」が大きなテーマの一つになっているだけのように思えます。
もちろん、この人たちというのは、たまたま今回掲載した上掲のお二人のことだけを指すのではなく、多くのマスコミ人という意味です。

次の写真は、リアルタイムで流れていたニコニコ動画からです。
ネットの情報もしっかり取る人たちにとって、既存メディアがこうした情報を意識的に無視するのは、想定内のことなのでした。

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posted by y.i at 23:56| 3.メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月06日

東京都議選の結果を見て、思うこと

それは、日本のメディアが己の道を踏み外してしまいつつあるということです。
一部の報道機関は、すでにその道を踏み外してしまっていると私は思うのですが、彼らはそれを自覚できているのでしょうか。

私は、6月1日の記事で、「加計学園のこの内容で記事にするのは無理」だと記しました。今でもそう思っているし、現実にこれまでたくさん報道されてきましたが、朝日新聞(最初にこのことを煽情的に記事にした新聞社です)をはじめ、どの社も、現政権に具体的にどのような非があるのか、示すことができていません。
これらの報道機関が伝えてきたのは、「現政権が、なにか悪いことをしているようだという”ムード”」だけです。

しかし、この恣意的な報道による”ムード”が、都議選の大勢を決めました。
おそらくこのムードは、今後の国政にも影響を与えるでしょう。
つまり、多くの国民の民意で選ばれた人たちに対して、メディアが本当にあったかどうかもよくわからないことを誰のチェックも受けずに垂れ流すことで、”その国民の民意を簡単に変えてしまうことができた”というのが今回の出来事です。
これで、民主主義国家といえるのでしょうか。

多分、多くの人は、「そんな大げさな!」と言うと思うのだけれど、私は現状をそれほど憂いています。

何度もお伝えしますが、私はどの政権や政党に肩入れするというのではなく、”健全なメディアが健全に報道してほしいと願うだけ”です。それが、私たちの社会をより良くすると信じているから。
しかし、現実はまったくその逆ですね。

特に今回は、秋葉原での安倍首相の応援演説の様子を伝える「報道ステーション」をはじめとする報道機関の様子は、率直に言って、私には異様としか思えませんでした。

もしこのまま、報道機関の有り様が変わらないなら、自分たちが変わることで対処するべきでしょう。
そのためには、私たちが新たなメディア・リテラシーを身に付けるべきだと思います。





posted by y.i at 22:59| 3.メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月11日

日々、疑問B

正直なところ、関西流で言うと(こういうテキストにするに相応しい言葉ではありませんが…)「あほらしい」と考えざるを得ないと思う、加計学園問題なるもの。

朝日新聞の記事を読んでいると毎回、「安倍晋三首相の友人が理事長を務める」という枕詞がついて紹介されるところから始まっていますが、この枕詞自体が、6月1日の記事で記した「A 事実であっても、ある一定の方向に誘導するように都合のいいように記事を作成する。」手法だと思っています。

それはさておき、改めて記しておきたいのですが、私はどこか特定の政党を援護するために、こんな記事を書いているのではありません。
しかし、メディアにいた人間として、メディアが「真実」「本質」「公正」に物事を報じることが今も何より大切だと思っているから、その観点から疑問に思うことを、ささやかに発信しています。

その観点からみた、今日の疑問。
報道では、メモがあったかどうかということばかりが論点にされているのですが、あのメモがあったとして、何が問題のなのかが、私には依然としてさっぱりわかりません。

特定の組織に対する利益誘導の結果、政治家が不当な利得を得たことが証明されたなら、それは問題です。でも、いまそんなことは何も証明されていません。
にもかかわらず、すでに現政権が悪いことをしているような前提での報道やムードがこの国を覆い尽くしてしまっていますね。
やっぱり、このことのほうが怖いです。やれやれ。

そのメモが実在するとしても、@メモを書いた人が、わざと悪意で書いたかもしれない可能性だって存在します。また、A役所ではいつもあんな言葉が常用されているから、今回もあまり何も考えないで書いただけ、もしくはB行政をある方向に導きたい役人たちが勝手に総理の意向をいいように使っただけ、という可能性も残ります。
今回はほかにも、地元自治体のみならず、野党もかつては推進していたこと、その野党の中には、既得権益の代表となる人物がいることなどなど、見極めなければいけないことが山積しています。

加えて、前事務次官なる、人物。私からすれば、論外です。彼はちゃんと税金で給料をもらっている間に、自分の使命をかけて、きちんとした仕事を(公私とも)しておくべきでした。ただそれだけのこと。
(ちょっときついことを言いますが、きっと1年後に、この人の名前を思い出す国民は、ほとんどいないと思います。)

そういったことを、冷静に見極めながら、公正に情報を出すのが報道機関の役割のはずなのに、これらに目をつむって書きたいことだけを書く新聞。
ネットで調べてみると、私の古巣のジャパンタイムズもそうなってしまっているようです。情けない話と言わざるを得ません。

ただ、一部の既存メディアの報道だけを信じている人からは、私が記したこうした内容はきっと反発を受けると思います。
これこそが、私が一番心配している、「メディアによる分断」です。

posted by y.i at 14:24| 3.メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月01日

日々、疑問A

昨日の記事で、「メディアの状況を見ると、最近は毎日とても暗澹たる思い」と記しました。
そこまで私が思うのは、本来、真実を公正に伝えて世の中をよくするべき存在であるはずなのに、既存メディアが今やっていることは、”分断”を生んでいるだけだと思うためです。
その最もわかりやすい例が、朝日新聞自身が誤りを認めた吉田証言に関する記事のために、多くの韓国人と日本人の間に、分断が生まれてしまったことでしょう。
あの作られた記事がなければ、韓国人と日本人の関係はもっと変わっていたと思います。

その分断が、「真実や本質を公正に伝えた結果生まれたもの」であるならば、受け入れなければいけないと思います。
けれど、現実はそうではありません。既存メディアが自ら果たすべき責務を果たさず、自らに都合がいいように恣意的な報道ばかりした結果、起こったことです。
私がいつも疑問に思うのは、どうしてこんなふうに恣意的になるのかということ。

ところで、恣意的になる際のパターンは3つあると思っています。
@ 本来ならしっかりと伝えるべきことを、意識的に伝えない。
A 事実であっても、ある一定の方向に誘導するように都合のいいように記事を作成する。
B ありもしない出来事を、あったかのように捏造する。

ネットの時代になる前は、多くの人がこれらのことに気づかないで、新聞に書かれていることやテレビで放映されること”だけ”を信じてきました。その結果、先に記した吉田証言なるものが、あたかも事実であるかのうようにセンセーショナルに報道され、そして他のメディアもろくに検証しないで後追い報道した結果、分断が生まれたのだと思っています。
自ら進んでネットで情報を取っていくと、ここで挙げた3つのパターンが今も常態化していることに気づきます。

だからこそ、私たちは今の時代に相応しい「メディア・リテラシー」を身に付ける必要があると思っています。「必要」というより、今の時代、ある年齢を重ねた大人にとっては「責任」という表現を使うべきだというのが私の実感です。ちなみに、リテラシーとは、読み解く力という意味です。

4月6日の記事の最後で、「そんな中で、やはり共謀罪反対がしばらく、続くのでしょう。」と書きましたが、今は「加計学園」なる学校に関することが問題であるように報道されています。
まるで雨後の筍のように”問題”が生まれてきている訳ですが、森友学園問題なるものが現れたときも、私は3月14日の記事で、私は「もともとこの話にはさして関心もなかったのですが」と書きました。その後、今に至るまで、”一部の既存メディアが追求しようとした何か”に対する回答はありません。

今回の加計学園の記事が朝日新聞の第一面にセンセーショナルに一番最初に出たときも、その中身を読んで思ったことは、「この内容で記事にするのは無理だ」ということでした。今日の紙面を見ていても、依然としてそのレベルから、ほとんど進歩がありません。にもかかわらず、そんなレベルの内容で紙面が埋め尽くされています。このままでは、上記したA、というよりBのパターンに当てはまってしまうかもしれません。
今後の展開を見ないと早計に判断はできませんが、朝日新聞は吉田証言のときとまた同じ道を歩んでいるのかもしれないと思っています。














posted by y.i at 23:03| 3.メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月31日

日々、疑問@

前回の記事のように、毎日、自分の使命に則った仕事ができて、週末には自分の時間を過ごすことができるという、幸いな日々が続いています。

しかし。
私の古巣のメディアの状況を見ると、最近は毎日とても暗澹たる思いでいます。

けれど一方で、これも必然の結果かなとも思っています。
要は、ネットの時代になって、これまでの既存メディアが独占していた情報を誰もが見れるようになったために、そして多くの場合、既存メディアが報道する以上の情報を私たちが得られるようになったために、既存メディアのメッキがはがれてきているのだと思います。
本当は、メディアがちゃんとした仕事をしていたのであれば、「はがれるようなメッキ」はなかったはずです。しかし、今、私が確信していることは、しっかりとしたジャーナリズムが育ってはいなかった、だから今、多くの市民が”メディアのメッキ”がはがれつつあるのを目撃しているのだということです。

まず、今日のタイトルの「疑問」について少し、考えてみましょう。
例えば。
どの新聞・テレビも「強行採決」と見出しを躍らせていたのですが、「強行採決」の定義って、何なんでしょう!?  どんな状態が「普通の採決」で、どこからが「強行採決」なんでしょう。どのメディアもそこのところを全く説明せずにこの言葉を使っていますが、私たちはそれを信じてしまっていいのでしょうか。
また、誰が「強行」かそうでないかの線引きをしているのでしょう!?

以前の記事に記したことの繰り返しになりますが、私はジャーナリズムはとても大切なものだと思ってます。にもかかわらず、今の既存メディアの有り様は―この例からもわかるとおりーそこから大きく外れた報道ばかりしていると思っていて、そこにとても危機感を感じています。
少なくとも、私がジャーナリズムに求める「真実」「本質」「公正」という3つの基本理念からかけ離れた報道が多すぎると思っています。

先週放送された「報道ステーション」では、ロシアの脅威に対して、隣接するリトアニアという小国の取り組みが紹介されていました。

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リトアニアでは、ロシアの脅威に対して、子供が生まれたばかりの普通の主婦でさえ志願兵となり武器を取るということを報道していて、コメンテーターがごく当たり前のことのように伝えていました。

でもこれって、同じことを日本で少しでも言葉にしたら、強烈なバッシングが返ってくるでしょうね。
軍事力を増した中国や北朝鮮の脅威に対して、同じように考える人も多いー私もその一人ですーと思うのですが、テレビ局のプロデューサーや司会者は、この矛盾について多少なりとも感じなかったのでしょうか。



posted by y.i at 20:18| 3.メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月19日

All the News without Fear or Favor

今回のタイトル文は、私が勤めていたジャパンタイムズの紙面のトップに必ず記載されていた文言です。
日本語にすると、「恐れることや、恣意的になることなく、全ての記事をちゃんと掲載します」という意味になります。
私は、会社に勤めていた頃からずっとこの文言が、大好きでした。今でもそうです。
ジャパンタイムズという新聞は、伊藤博文や福沢諭吉の支援を受けて1897年に創刊した新聞でした。その頃の、志ある先輩たちが掲げてくださった思いが、このシンプルな文章に詰まっていると思うし、私自身もとても共感したからこそ、その会社に入ったし、初めは嫌でしかたなかった営業の仕事も頑張ることができたものでした。

これって、簡単に言えば企業理念ですね。





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